ARTIST   INTERVIEW

RICHARD TUTTLE : リチャード・タトル

リチャード・タトル
RICHARD TUTTLE  リチャード・タトル

Section I, Extension T, 2007
"Section I, Extension T.", 2007
mixed media
18.1 x 7.9 x 14.6 cm

PRESS RELEASE
プレスリリース

ARTIST BIO & WORK
作家略歴

SPERONE WESTWATER
スペローネ・ウェストウォーター・ギャラリー

Section V, Extension F, 2007
"Section V, Extension F.", 2007
mixed media
18.4 x 7.6 x 9.8 cm

このインタヴューは、ARTINFO.com “AI INTERVIEW”の記事を、スペローネ・ウェストウォーター・ギャラリーの協力を得て掲載しています。
text/Robert Ayers : ロバート・エアズ
訳/木下哲夫


リチャード・タトルは1960年代半ばに初めて世間の注目を集めて以来、他に例を見な い独自の道を歩みつづけてきた。白い紙を切り抜き壁に糊づけした幾何学図形、針金を折 り曲げた奇妙な造形、染料で彩色したカンヴァスをストレッチャーには張らずカットアウ トにした作品、壁に釘づけしたロープの切れ端などは初期の多様な試みの一部にすぎない 。当然だれにも好まれるというわけにはいかなった。1975年にホイットニー美術館で 初の大がかりな回顧展が開かれたとき、ヒルトン・クレーマーはニューヨーク・タイムズ でつぎのように酷評し、評論家としての経歴に汚点を残す。「タトル氏の作品ではとるに たらないものが、どうしようもなくとるにたらない。あくまでも、救いようもなく、とる にたらない。とるにたらないものの新基準を打ち立てたようなものである」

ところが、最後に笑ったのはタトルのほうだった。自身の作品評価がみちがえるほど高ま ったばかりでなく、ポスト・ミニマリズムと総称される多彩なもくろみが、タトルの試み にヒントを得て台頭したことは明らかだからである。タトルにとって2度目の大規模な回 顧展は2005年7月にサンフランシスコ近代美術館で始まり、数週間前、最後の巡回先 となる6番目の会場、ロサンゼルス現代美術館に到着した。この回顧展は新世代の観客た ちにとって、流行にはあえて背を向けながら、しかし一風変わった美しさを湛えるタトル ならではの作品をじっくり味わうチャンスになるだろう。

「記憶は暗い外延(エクステンション)からやってくる」と題する最新の個展はニューヨ ークのスペローネ・ウェストウォーター・ギャラリーで5月3日から始まったが、展示の しあげの合間をぬって、作家の話を聞くことができた。タトルのことばの用い方は、素材 の使い方と同じように独特である。今回のインタヴューは当サイト(ARTINFO.com:原文はSPERONE WESTWATERでご覧になれます)にこれまで掲載した ものの中でもとびきり風変わりで、魅力あふれるものとなった。

とても美しい展覧会ですね。でもあなたの作品は美しさを狙ったものではありませんよ ね。

東洋の思想家は世の中の幻影について語っています。わたしはこの考え方にとても親し みを覚えるのです。なぜなら、ひとの関心の向かう先がみかけか真実かは、一目見ればす ぐにわかりますからね。みかけをことさらに重く見る仕組みがこの世の中にはびこってい る。それに対して、真実であるものと夢中になって取り組むひとたちもいる。圧倒的に多 数の人々の暮らしは、みかけに目をうばわれたものになっているし、美術の大半でさえみ かけしか問題にしていない。みな、文字通り、みかけにすっかり翻弄されています。

でもあなたはみかけではなく、真実と取り組んでいると信じているわけですね。

わたしたちの文化では、美術に使命があたえられています。なぜなら真実を経験できる のは、美術以外にないからです。真実を経験することは、人間が生きて行くうえで、絶対 的な基礎になります。わたしの使命は、力の許すかぎり、最良の視覚体験をあたえること です。わたしは人々が人生を楽しめるように、視覚体験を妨げている障害をとりはらおう と努めています。生きる意欲について、よく考えるようになりました。純粋な意欲は最良 の視覚体験から生じるのではないか。今回は、そうした生きる意欲をほんとうに掴んだと 自分でも感じられる、初めての展覧会なのです。各々があたえられた仕事をなしとげるに は、一生かかります。一夜明けたらプロになれるほど、美術は甘いものではない。絶望と 正面から向かい合うには、長い時間がかかるのです。
わたしの場合には、自分がまったくつまらないものだという考えが心のどこかにあり、 物心ついてからというもの、ずっと自分はつまらない人間だと感じないですむように努め てきました。今回の展覧会では、自分でも新しいレベルに達したとたしかに感じます。さ て、どうするか。美術が開く可能性は、何物にも肩代わりできないものだと思います。

ノイローゼを癒すために作品をつくっているようにも聞こえますね。

自分はつまらない人間だと思う感情に対処する方法のひとつが、ノイローゼに罹ること なのですね。アーティストにとっては、実際に達成できるある種の完璧さが存在する。と ころが、もう一方ではもともと不可能なこともあって、そちらにひきずられればノイロー ゼにもなるし、ぼろぼろにもなりかねない。いま展示している作品ひとつひとつにじっと 目を向けて、本来あるべき姿になるようにするために、なにかすることはないか見定めよ うとしているわけだけれども、美術作品であれば当然それはある。それでもノイローゼの ような恐怖に負けないように、なんとか我慢しているわけですね。
作品のひとつひとつが作者にとっては新たな課題になります。これはルネサンス期に生 まれた物の考え方だと思いますが、なにか難しいことにとりくむと、そのことによって高い 評価が得られる。だから、作品毎にあえて難しいことを試みるようになる。たとえば、こ の《セクション1、エクステンションT》(2007年)を見てください。菱形と正方形 を関連づける作品を手がけるのはこれが初めてです。菱形には系統があり、正方形にもま た別の系統がある。そうした系統をふたつ同時にうまく活かすのは、とても難しい。どう も捗々しくないと思っていたけれども、こうやってすこし離れて見ると、うまくいったこ とがわかる、つまりここでは黄土色が光を発しているように見えて、白は光を発していな い。これはとても難しいのです。「優れた作品」と見なされるものでは、それが逆になり ます。

美術作品の大半が真実ではなく、みかけにとらわれているのはなぜだと思いますか。

真実に根ざした作品をつくりあげる必要があるでしょう。わたしたちの文化では、模倣 に基づく経験が、真実に基づく経験を圧倒している。これは情けないことです。それでも アーティストのなかには、心の底から、美術とは真実の体験に関わるものと信じているひ とたちがたしかにいる。美術が存在するのはなぜかと言えば、それは今の世の中では真実 を経験できないからです。哲学者もそれがなにか教えてくれないし、宗教にも期待できな い。だから美術がきわめて重要になってきます。
しかしわたしたちの社会は、美術を抑圧します。わたしたちの文化では、生き延びるの に美術を必要とするような人は、変人あつかいされる。毎日、世間のありとあらゆる方面 から美術とは模倣に基づくものだと吹きこまれる。それは真実とは正反対なのに。模倣の うえに人生を築くなんて、とんでもないことです。自分はそうしていると言うひとでも、 決してそんなことはしていない。そんな馬鹿なことはありえない。絶対にありえません。

いったい何がそうした状況をもたらしたとお思いですか。

現代は人類の歴史のなかできわめて特殊な一時期なのだと思います。ふりかえればこの 特殊な文化の礎が拓かれた時点まで、はっきりと見とおすことができるし、わたしたちの 文化が形成される時点で、アーティストは美術の理論と実践はどうあるべきかを明確にし ました。理論としては、美術は真実に基づくということであり、実践面では、それを表現 するものを作るということです。しかしそれは難しい。たやすいことではない。どれひと つとっても、易しいことはありません。ヘレニズム時代の哲学者が、美術は模倣に基づく ものと考えれば話はずっと簡単になると言いだしたました。連中にとってはどうでもいい ことだったのです。アーティストではなかったし、美術が堕落すれば、かれらには得るも のが大きかった。そのため美術はこうして長い年月、だれひとりとして本当に満足させる こともなく、おぼつかない足どりで進むことになった。
それでもたまには、たいがいは時代がいよいよ逼迫し、世の中が混乱をきわめ、生きて 行くことすら難しくなった時に限られますが、アーティストが息を吹き返し、真実に基づ く作品をつくりあげ、そうするとだれもが「どうもありがとう」と礼を言う。ところがそ うした時期がすぎれば、すぐさままた模倣に基づく美術に戻っていってしまう。

現在、美術は模倣に基づいて構想されているとおっしゃいますが、どんな例があるので しょう。

ニューヨーク・タイムズは美術を「娯楽」としてあつかってます。疲れはて、気晴らし がしたいとき、そこにあるのが美術作品というわけです。つい最近載った記事に、「リチャ ード・タトル個展の入場券を、プレイガイドで手に入れようとは思わないでください」とい うのがありました。これはもちろんそうした類の展覧会ではありません。これは人生に不 可欠な存在としての美術です。入場希望者が押し寄せて、何ブロックもの行列ができる展 覧会もあるけれども、そうしたものがひとの生きて行くうえでどうしても必要とは思えま せん。幸い大半の国はまだ絶望するところまでは追い詰められていないから、その程度で 用が足りる。しかし美術を人生の大切な一部にしている人々にとって、美術に触れられな くなるのは死活問題です。それほど美術に対する抑圧は強力なのです。

大がかりな回顧展のすぐあとに新しい個展の準備をしたのですから、特別な緊張感を味 わったのではないでしょうか。そのことについて、今はどうお感じですか。

非常に誇らしい気持ちです。回顧展が6都市の美術館を巡回しました。これは滅多にな いことです。それから巡回展も長くつづくとだんだん評判が落ちるものですが、今回の場 合は進むに連れてエルネギーが増しました。
スペローネ・ウェストウォーター・ギャラリーでの個展がわたしにとって重要な理由の ひとつは、人生には周期のあることを示してくれたことだと思います。わたしは今まさに 新しい段階に入ろうとしている。ひとは「隠退」について語るけれども、わたしにとって 今のこの時期は展覧会をさらに発展させる前に到達した安定期のようなものです。ですか らできるだけ未来を予感させる展覧会にしたかった。なぜなら、わたしはこれから先に進 んでゆくのですから。アーティストは目の前にあることをしなければならない。美術史を ふりかえれば、たとえばゴヤはボルドーへ、モネはジヴェルニーに赴き、デイヴィッド・ スミスはステンレス・スティールの作品を手がけはじめた。過去は過去。もうどうでもよ いことです。ひとつの世界を創りだそうというのですから、することならいくらでもあり ますよ。

それはそれとして、この展覧会については、どのように考え、作品を揃えたのですか。

展覧会というのは神秘的なものです。作品ふたつでも成り立つし、千点でも成り立つ。 ひとつ確かなのは、そこに一貫性がなければならということです。
絵画、彫刻、素描のどれかを選ぼうとしたことはこれまでも一度もないのですが、今回 はつまるところ彫刻を選ぶことになりました。彫刻はほんとうに素晴らしい。この選択に は満足しています。彫刻は視覚芸術でも最高位にあると思うからです。つまり表現力が最 も高い。感情を表現する手だてとして、最大の可能性を秘めている。この展覧会ではひろ がりと深みのあることをはっきり目で確認するところまで来ることができました。このふ たつは、あらゆる美術作品のなかで展開することのできる両極にあたります。作り手とし てのわたしは、どちらかを選ぶように迫られる。ひろがりを求めるか、それとも深みを求 めるか。

展示の間際になって、これらの彫刻を金属製の小さな支えに取り付けることにしたのは 、そのせいですか。これは作品にとって、とても大きな意味を持ちますね。

その通りです。あの仕掛けでうまくいくとは、実は思っていなかったのですが。道具、 あるいは支柱が独特の道筋をたどって宇宙のなかで発展する一方で、彫刻も宇宙のなかで また別の道筋をたどって発展したわけですね。それが今こうして触れ合う。ふたつをまと めてひとつのものと見ることができます。
美術は特殊な瞬間であるべきだと思います。普段ならありえないことの起こる、貴重な 瞬間であってほしい。わたしのお気に入りのひとつが、その小さな《セクションV、エク ステンションF》(2007年)なのですが、緑色のような部分があるでしょう。色には 歴史があり、人間が色を見るのは、それを見るのにふさわしい時が来てからなのです。わ たしたちと色彩の間には、根源的な関係性がある。わたしにはそれがとても興味深く思え ます。

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