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installation view at TKG Contemporary ;
Tomio Koyama Gallery, 2008 © Nobuhiro Fukui
既知の未知、既視の未視
トーンが揃うように撮った写真の色調をコントロールするというよりも、揃う写真を選んでます。無理にコントロールしてしまうと、話が違ってきてしまいます。プリントのためのトーンの調整といった程度です。画面の一部を真っ暗にしたり、コントラストを上げたりして、ドラマチックな雰囲気を演出する、なんてことはやっていません。それだと、テレビや映画のような映像になってしまいます。自然な状態というと、今度は何が自然かという問題にもなってしまいますが、テレビや映画の映像とは違った見え方、ものの見方について考えたいんです。
写真を選ぶにあたっては、写真と写真をぴったりくっつけて展示しても一見して違和感がなく、空間がつながっているのか、つながっていないのか、一瞬とまどうような状態を目指しました。もちろん、写真と写真はくっつけてますが、つながっていない状態です。それぞれ異なる別の空間です。
写真をアクリルにマウントするという見せ方を選んでいるのも、展示栄えするからというような理由ではないんです。余白なしの裁ち落としで見せるための最良の方法だと思うからです。裁ち落としにすることで、異なる空間を撮った写真を半ば強引にくっつけて並べる。空間的につながりが感じられるような写真をぴったりと並べることで、それぞれを相互に関係づけて比較対照できるようにする。しかし同時に、空間と空間がつながっていないことで、空間が切り取られていること、フレームの存在を逆により強く際立たせる。というのが、ねらいです。
installation view at TKG Contemporary ; Tomio Koyama Gallery, 2008
写真はフレーミングによって広大な世界から一部分を選び取ることによって成り立っていますが、裁ち落としにすることで、写真を見る人の意識を「カメラが空間を切り取っている」ということに向かわせることができると考えます。写真一点一点が部分でしかないということが意識されれば、フレームの内側だけでなく、フレームの外側も想像できる余地が生まれてきます。写真と写真をいくら並べてみたところで、それぞれの写真は点と点のままですし、せいぜい点と点の間が線で結ばれる程度でしょう。しかし、それぞれの写真が「切り取られた点」であることが意識されれば、点と点の欠落の間に空間が生まれてきますし、もっといえば、それぞれの点が置かれているより広い意味での空間が意識されるようになってきます。そういう状態が実現できれば、写真の見方はより豊かになるのではないでしょうか。写真の内側が有限であるからこそ、その外側の広大な無限につながるような。そういうことに興味があるので、写真のセレクトと展示の方法については、いつも頭を悩ませています。
逆に、絵画コンプレックスと言われるような、いわゆるビッグ・ピクチャー、大画面志向の写真作品は、フレームの存在を意識させないよう、その内側の空間をつくり込み、画面の中だけの強度を求めてしまいがちです。「一つの世界をつくる」なんて言葉もあったりしますが、そのままでは、その世界だけの話になってしまいます。どんなに広大な画面をつくり上げたところで、写真はフレームの拘束からは逃れられないんです。そこで一歩踏み外してしまうと、どんなに画面は大きくとも有限の世界を所有するだけになってしまうと思うんです。
なぜ「被写体」という言葉を使いたくないかというと、「被写体」という言葉は最初から何を撮るか想定してしまっているからです。あらかじめ対象を想定しているがゆえに、ありきたりの決まりきったものになってしまったり、撮影者自身の経験や見てきたものが表層的なレベルで強く出過ぎてしまいがちです。写真は、人間とは異なるメカニズムで動くカメラという機械を使用することが前提となっています。そのことを考えて制作していくほうが面白いのではないでしょうか。あらかじめ頭の中に想定している何かをつくりたいと思うのなら、絵画のほうがより適しているでしょう。写真を選んだからには、やはり写真だからこそできることのほうに向かうべきだと思います。
もしかしたら「被写体」や「対象」という言葉すら必要ないかもしれないですね。言葉があるとそれに縛られてしまいますから。



L to R: "Multiplies -01", 2007 "、Multiplies -04", 2007、"Multiplies -07", 2007
pigment print mounted on plexiglass / 48.0 x 72.0 cm © Nobuhiro Fukui
物語的要素を排除するもしないも、そうしたことを意識しないで撮っています。カメラは考えません。私も撮影するときに考えないことで、写真の見方をあまり限定しないようにしています。そのほうが見る人のものの見方に広がりができて豊かになるのではないでしょうか。
私の作品を見て怖いと感じる人もいれば、街の温かみを感じるという人もいます。ある日この写真を見て物語性を感じるかもしれないし、次の日を見ると物語性を感じないかもしれない。そういう揺らぎがあったほうが面白いと思います。その揺らぎによって、見る人は自分の意識やものを見る癖について考えるかもしれません。もしも一つのことに限定されていると、単なる絵解きのようになってしまいます。見方を拘束している作品というのは、見る人に自分のものの見方を問い直すようなきっかけをもたらすことがありません。限定するやり方もあるとは思うけれど、私はなるべく限定しないようにしています。
私は写真を通して「既知の未知」や「既視の未視」といったものにアプローチしていきたいと考えています。それは、普段の生活で目にしているような写真とは全く別物かもしれません。でも、そこで「おや」と立ち止まって、少しでも長く眺めるように写真を見てもらえればいいんです。仮にそうならなくても、人は一瞬でも目にしたものを無意識的に意識の底で覚えてますから、日常生活を送るなかで、たまたまこういう夜の風景を見つけて、「あれ!」と私の作品を思い出していただけると嬉しいですね。それに、私の作品をあらかじめ見ていると、たぶん普段の街の見え方もちょっと変わってきますよ。そして、"眺める"が、"主体的に見る"になり、"凝視する"にまでなれば、もっと「見る」ということが豊かになってくるはずです。
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