素材との対話

7階にある"works on paper"と6階にある紙の作品では、違う印象を受けます。6階の作品は紙を素材とした彫刻の延長線上にあって、7階はよりドローイング的な、造形の要素が強いように感じます。その時々によって、素材と対話しているあいだに菅さんご自身によって意味付けがなされ、違う形になるのでしょうか。


6階の作品は最初の頃のpaper workです。当初、僕の意識は現実世界における日常的な認識を変えるということにすごく時間を割いていました。全ての作品に、見たものを見た通りにではなく、違う側面を見る、という意識が投影されている。一枚の紙でも普通に見えるんだけれど、「いや、僕が見たらこれはこういうふうに見えるんだな」と、認識を変えるための作品なのです。

紙の作品(6階)は75年代のものですが、あの辺りから始められたんですね。

Kishio Suga

写真左から "洗周", 1975、"依帯域", 1973、"奥光律", 1975
© Kishio Suga

最初は「paper workなんてちゃちくさいの」なんて思っていた。「こんなちゃちくさいのをやって俺もうダメだわ?」とか、すごく悩んでいました。だから、なんとかしてpaper workをつくらないようにしていたのです。しかし、インド哲学を初めとしていろいろな勉強をするうちに、物質性というのは単に物質の問題ではないこと、もっと精神的なものの媒体だということを知りました。そうなると、精神媒体を自分で捨てるわけにはいかないから取り入れようと思うに至ったのです。
つまり哲学的な発想から来ているんですよ。単なる紙ではなく、紙をどう見るかと、いう哲学性から来ているわけですよね。平面、2次元という問題や、物質がそこに存在しているということは何なのか、というところから来ている。たまたまあれは平面で、僕は平面に対してあまりいい感情をもっていなかったから、そこで「やってみせてやろうか」「俺が見たらこうだ」と「お前らはくだらないものを描いているけど、俺が紙をいじったらこうだよ。」と見せてあげたかった。

非常に攻撃的ですね。

そう、その頃の僕はものすごいく攻撃的だった。当時の写真は攻撃的な顔をしているでしょう。少なくともこれから何十年もやっていくのに、生半可な顔をしてやっていられないじゃない。そういう鬼みたいな意識があったんです。「くそう、俺ならこうだよ」っていう意識があった。
7階のドローイング作品はそういった戦闘的な態勢で制作したのではなく、木の枝を使っていて、トレースしている。人間の考えているカーブとはまた違ったラインを自然から受けています。一種の他力本願だけれども。というのも、僕は他力性をすごく買っているのです。人間がもっていないもので自然はもっているものは無限にある。そういった他力性を利用するのがひとつのリアリティのあることだと僕は思います。

Kishio Suga

写真 壁左から "通りすぎるもの-30", 2007、"場所を得るもの", 2007、"通りすぎるもの-50", 2007、"入りくるもの-14", 2007、"閉じないもの-50", 2007、"閉じることのないもの-5", 2007 / 手前 "極性",2007-08
© Kishio Suga

今回の"works on paper"は、基本的にすべて木の枝をトレースしたものなのですか。

そう、だからまず木の枝をとってくるところから始めなければならない。身体性との付き合いをしなければならない。そうすると自然とは何なのであろう、と思う。歩いていると葉っぱなどいろいろなものが落ちている。自然とはどういう空間なのだろうか、と思う。そのあたりからまず入るわけです。単なる素材性ではなく、自分がいる場所の性格、特質を直に感じて、そこから押しだしたものを使う、という意識で枝を使ったりします。

一方、(7階の)合板の作品は壁に掛かっているので、人によっては作品をタブローとして見ようとしますよね。彫刻的な仕事と平面的な仕事とでは、菅さんにとって違いがあるのでしょうか。

立体というものが基本ですが、立体をぐーっと壁に押し付けていったら平面になりますよね。今回僕は、そういった空間の圧力のようなものについてすごく考えています。
圧力を強くしていけば、どんどん密度が深くなるでしょう。すると密度の深さをそのままにしておくわけにはいかず、どこかで放散しなければならない。見せる、ということでしょうか。そのシステムを取り入れたいのです。押し込んだだけだと爆発してしまうので、どこかに空気抜けのようなものを作らなければならないから、そこにこそシステムや構造性が生まれる。まず自分が立って押していきます。

Kishio Suga

2006年の展覧会、展示の様子。
installation view at Tomio Koyama Gallery, 2006
© Kishio Suga

それはこのスペースを想定されての事ですか。

いえ、一種の周囲論みたいになるけれども、自分の周りが全て周囲として自分が空間にあるとすれば、自分はその空間に対して圧力になっているわけだ。圧力をもった人間が動く度に空間も動いて揺れができる。それを揺れないようにしてしまおうと、定着しようとする考えがどこかにあります。
前(2006年)は空気の作品をつくっていましたが、今回はそれをもっと実質的にして、圧力として物体感を出したときに何になるのか。すると一種の層のような状態がでてきた。そういう目がないと、この合板を見ても何も浮かんでこないですよね。素材に対する近づき方も大事です。

page| <<1  2 

# page top