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installation view at Tomio Koyama Gallery : 6th floor, 2008
写真中央 "間の集",1983、"石の仕切り",1981 / 左のworks on paper "三場開端", 1975、"周切空律",1975、"破囲",1975 / 奥の壁 "間結構縁",1975 ほか © Kishio Suga
素材との対話
6階の作品は最初の頃のpaper workです。当初、僕の意識は現実世界における日常的な認識を変えるということにすごく時間を割いていました。全ての作品に、見たものを見た通りにではなく、違う側面を見る、という意識が投影されている。一枚の紙でも普通に見えるんだけれど、「いや、僕が見たらこれはこういうふうに見えるんだな」と、認識を変えるための作品なのです。
最初は「paper workなんてちゃちくさいの」なんて思っていた。「こんなちゃちくさいのをやって俺もうダメだわ?」とか、すごく悩んでいました。だから、なんとかしてpaper workをつくらないようにしていたのです。しかし、インド哲学を初めとしていろいろな勉強をするうちに、物質性というのは単に物質の問題ではないこと、もっと精神的なものの媒体だということを知りました。そうなると、精神媒体を自分で捨てるわけにはいかないから取り入れようと思うに至ったのです。
つまり哲学的な発想から来ているんですよ。単なる紙ではなく、紙をどう見るかと、いう哲学性から来ているわけですよね。平面、2次元という問題や、物質がそこに存在しているということは何なのか、というところから来ている。たまたまあれは平面で、僕は平面に対してあまりいい感情をもっていなかったから、そこで「やってみせてやろうか」「俺が見たらこうだ」と「お前らはくだらないものを描いているけど、俺が紙をいじったらこうだよ。」と見せてあげたかった。
そう、その頃の僕はものすごいく攻撃的だった。当時の写真は攻撃的な顔をしているでしょう。少なくともこれから何十年もやっていくのに、生半可な顔をしてやっていられないじゃない。そういう鬼みたいな意識があったんです。「くそう、俺ならこうだよ」っていう意識があった。
7階のドローイング作品はそういった戦闘的な態勢で制作したのではなく、木の枝を使っていて、トレースしている。人間の考えているカーブとはまた違ったラインを自然から受けています。一種の他力本願だけれども。というのも、僕は他力性をすごく買っているのです。人間がもっていないもので自然はもっているものは無限にある。そういった他力性を利用するのがひとつのリアリティのあることだと僕は思います。
そう、だからまず木の枝をとってくるところから始めなければならない。身体性との付き合いをしなければならない。そうすると自然とは何なのであろう、と思う。歩いていると葉っぱなどいろいろなものが落ちている。自然とはどういう空間なのだろうか、と思う。そのあたりからまず入るわけです。単なる素材性ではなく、自分がいる場所の性格、特質を直に感じて、そこから押しだしたものを使う、という意識で枝を使ったりします。
立体というものが基本ですが、立体をぐーっと壁に押し付けていったら平面になりますよね。今回僕は、そういった空間の圧力のようなものについてすごく考えています。
圧力を強くしていけば、どんどん密度が深くなるでしょう。すると密度の深さをそのままにしておくわけにはいかず、どこかで放散しなければならない。見せる、ということでしょうか。そのシステムを取り入れたいのです。押し込んだだけだと爆発してしまうので、どこかに空気抜けのようなものを作らなければならないから、そこにこそシステムや構造性が生まれる。まず自分が立って押していきます。
いえ、一種の周囲論みたいになるけれども、自分の周りが全て周囲として自分が空間にあるとすれば、自分はその空間に対して圧力になっているわけだ。圧力をもった人間が動く度に空間も動いて揺れができる。それを揺れないようにしてしまおうと、定着しようとする考えがどこかにあります。
前(2006年)は空気の作品をつくっていましたが、今回はそれをもっと実質的にして、圧力として物体感を出したときに何になるのか。すると一種の層のような状態がでてきた。そういう目がないと、この合板を見ても何も浮かんでこないですよね。素材に対する近づき方も大事です。
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