創造力の突端

多摩美術大学でずっと教鞭をとられていたので、レクチャーには慣れていらっしゃいますよね。

レクチャーには慣れていないしね、多摩美のことも全部忘れちゃいました。思い出したくないですね。教えるというのは、基本的にアーティストにとってよくない。自分のもっている創造的魂みたいなものが削れてしまって減っていくんです。ああういうところで終わった先生には皆、何もなくなってしまうんです。

言葉にして消耗してしまうということですか。

そう、消耗しちゃう。創造力ってそういうものなんです。言葉や「やってみせる」ということに「仮に」はない。アートは全部「本物」でやっていくということでないと。
だから日常的には普通の生活をしていても、日常は全部アートの方向に向いてないと。つまり、創造的なものの見方が必要なんです。これは一体何なのか、そしてそれをどういうふうにしたら自分の中で内面化できるか。アーティストには、自分で抽象性を貯めていく必要性がある。どんなものを見ても、ものには創造的な芽がありますよね。そこを見つけるのが重要だと思います。人間に内面の意識があるのと同様に、ものにも内心、内面の力、内面の構図があります。つまり潜在性ですね。潜在性を見れるか。あるいはどのように顕在化できるか。そこに意識がいかないと、ものはなかなか見えてこない。何を見ても、それは創造力の突端にあるんだと思っていないと、ものは創造的にはできない。今回はものの潜在性のようなものを余計に出そうと決めたので。それは表面から繋がっているから、まず外側をどういうふうにみて、認識するかというのが重要だと考えています。そこから内側に入っていきますので。

Kishio Suga

installation view at Tomio Koyama Gallery, 2008
© Kishio Suga

では外側のどの部分に、意識を集中するのか?全体をぼやっと見ているのではなくて、この部分から、というところを自分で見つけて内側に踏み込んでいく。つまり、ものの潜在性を見つけるということが大事です。それは自分の内面の意識のレベルをみるのと同じ意味ですから、自分の意識レベルを高めていかないと、もののレベルの高さも上がってこない。ものと人間には、そういった共通した意識がものすごくあるんです。常に自分で意識してそれを保っていくということが必要です。

制作活動をされているときも、制作からは離れて日常生活を送られているときも、常にそういう意識レベルが続いているような感覚なのですか。

寝ても覚めても続きます。もちろん余計なことも色々考えるけど、(「あの子が好きだ」「何が食べたい」など)、基本的に生きている限りは常に創造的な意識を保ち続けるということが大事ですよね。そこに、言葉やある種の伝達様式が生まれてくる。従来はこうだけれど、自分が考えたらこういうふうなものじゃないか、その差異を自覚していく。そして差異をどのように見えるようにするかを考える。
そこにひとつの創造的なシステムが生まれてくるわけです。削ったらいいのか、塗ったらいいか。フィジカルな動作が入ります。そこまでいくと、ものとの対話、内側を捕まえた感覚がでてくる。それをさらに、最初の考えとは離れて、タッチしているうちに触覚的に、人間の五感を全部使って、どういう手触りでどういう形になって、どこをどうすればいいかが感覚的にわかるんです。多分、僕でなくともわかるでしょうけど。

Kishio Suga

"複素化", 2007
wood
122.0 x 243.0 x 6.8 cm
© Kishio Suga

作品を制作されるときに、最初にこういうものをつくりたいというイメージがあり、それに向かって作業していかれるのでしょうか。それとも、素材を触っていく中でイメージが沸き上がってくるものなのでしょうか。

両方平行していますね。例えば、何かを一つ変形させたい、創造的に新たな言葉をつけたいとします。まず、理念上のことを考える。そして理論をひとつ持った上で「じゃあ今回は、手近に木にしようか」とか「鉄にしようか」「石にしようか」とこの世の存在物に到達する。
要するに、最初の理念はこの世と少し違ってある種の混沌状態のような精神状態です。そういう混沌性を、秩序ある物質世界に持ってくる限りギャップがあって、そのギャップが意味を呼んできたりする。

Kishio Suga

写真左から "複潜化様", 2007
wood
243.0 x 122.0 x 6.8 cm
"複潜在化-2", 2007
wood
243.0 x 122.0 x 6.8 cm
"複性", 2007
wood
h.101.0 x w.45.0 x d.45.0 cm
© Kishio Suga

頭の中から出てきたものが現実的な物質になる過程で、色々な意味合いが生まれてくるということですね。

そうですね。というか、自分で意味合いを作ってしまうところがアーティストにはあるんですよ。あるもの(既存のもの)を使うのではなく、自分自身で意味なり言葉なり概念なり認識なりを作ってしまうんですよね。それが出来るか出来ないかという違いは、ものすごく大きい。僕の作品のタイトルのように、違う概念化をするわけです。違う言葉の繋がりが、普通は人間が考えない世界観みたいなものを捉えていくんじゃないかと思っています。
年がら年中、とにかくアートについて考えること。それが一番。寝ても覚めても、人に「あいつ、阿呆じゃないか」と言われても、とにかく考えることですね。そうすればなんとか自分の理念や認識を保っていける。アートは習うものではないから、自分で意識や理念を入れて内化するわけです。そして内化したものを外にもっていく。そこには自分なりのものが必ず入っているのです。

Kishio Suga

"内化", 2007
wood, plaster
left h.47.5 x w41.0 x d.44.0 cm / right h.48.0 x w.44.0 x d.41.5 cm
© Kishio Suga

作品タイトル「複素化」という言葉もオリジナルで新しい理論を想定していますし、またそれが「潜在化」など少しずつ変化していますね。なぜそのように変化しているのか、そこに起こっている変化の理由はわからないのですが、それを知ろうとするために作品を見ます。

そうですね。そりゃあ見て欲しいです。全ての作品において、ものにちょっと違う感覚が入っているんです。そういうものも楽しみの一つだということですかね。
あの作品は「内化」というタイトルだけれど、もろに内側と外側の軋轢の状態性を表面に表している。本来は物体には内側があるのだけれど、見えないので感覚的にしか捉えられない。それを自分の頭の中で表面の方に押し出していける。先ほど述べた圧力のようなものがかかったときに、あのような傷ができる。あるいはあの傷を付けた事によって木がそれを吸収していく内側の過程も想定できる。それを内化といいます。

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