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installation view at Tomio Koyama Gallery, 2007
"wall-figure (female/male)"
© Stephan Balkenhol
説明的な意味からの解放
全体的に、インスタレーションがきれいに整いすぎていてもつまらない、と思いました。人物と抽象の関係性を提示できるのであれば、「man with white shirt」はレリーフの前である限り、どの様に配置しても成り立つと考えています。人物を壁の方に向けて置くこともできたわけです。
個々の作品は、それぞれ異なる要素を探求しているのですが、特にレリーフとの組み合わせた作品に関しては、彫刻に背景を与えるという趣向です。背景は、その人物の世界観の構築に影響してくるので、私はそれを自分で創ることで納得のゆく、より確かな状態にしたいと思いました。具象と抽象の相互関係は、響き合う音のように、また違ったスケール感と深みを我々に与えてくれるはずです。
それは私にとっては視覚言語の域ですね…。抽象的な形態を扱うと、美術史や抽象芸術家との関係が必然的に生まれてきます。ただ私にとって抽象は、レリーフであるということもあり、立体的な模様なのです。そしてそれに見合った具象彫刻を創り、二つの形態の間に生まれる相互関係や緊張感を見せたいと思っています。組み合わせは至って感覚的なものです。
そうですね。
そういった文化の上で生まれているので、確かに私の作品に影響しています。それは私の視覚的な思考の一部であり、私にとって具象作品を制作することは自然な行為だと思います。中世の歴史からみても、彫刻は常にある思想や政治、宗教を表すためだけに社会的機能を果たしてきたと思われがちです。しかしそれだけではなく、ゴシック調の彫刻を見てみると(聖者、マリア像やキリスト像でも何でもいいのですが)、私にはそれらが機能を超越した、紛れもない芸術作品のように思えるのです。その時代を生きた芸術家や職人が現実をどう受け止め、どう自分たちを見ていたのかが反映され、凝縮されている。だから彫刻は昔から芸術家の想いを反映するのに恰好の表現媒体でもあったといえるのです。私は、自分の作品を通して、人物のイメージを説明的な意味から解放したいと思っています。そして、誰にでもなれる、単純な“空(から)”の人影だけを見せようとしています。
今の世の中はとにかくメディアの写真や広告などの情報で日々溢れており、我々の感覚を麻痺させているように思えます。なので、自分自身の中を見つめる静かな機会があまりなく、非常に難しい時期です。マスメディアの写真も人物の写真であることに変わりがないのですが、それらのイメージには映画の宣伝や商品を売るための、消費者としての人間の側面しか描かれていない。私はとてもシンプルでありつつ深い人物像に焦点をあてたいのです。そこには、余計なメッセージは何一つ要らない。とても静かな人物像なのですが、その静寂さ故にもっと大きなことを語ってくれるでしょう。
この レリーフ(「3-part relief (black)」)はベルリンの展覧会のために用意したもので、今年の夏からすでにありました。しかしこの背景の前に置く作品をベルリンの展覧会までに間に合わせられなかったのです。実際この大きな頭も先週創り上げました(笑)。
訪ねたことのある場所です。自分で撮った写真がもとになっています。
彫刻のためのアイデアをスケッチすることもありますが、大体は自分のためのドローイングです。本や雑誌の中からスケッチの対象を探すこともありますし、自然や身の回りのものをよくスケッチしています。ドローイングは、私にとって視覚的な運動であり、体操でもあるのです。
それは特にありません(笑)。高さのことで余談ですが、今年創った台座の上の人物の高さは全て50センチなのです。それは制作時の私の年齢に合わせるようにしています。ですから私は今50歳です。
軍事的な意味とも勿論とれます。ドイツは特に軍の力によって抑制された村がたくさんあるので。しかし重要なのは制服の下はみな同じ肉体をもっているということです。皇帝だって裸になってしまえば一緒ですから。結局、みんな人間なのです。
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